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水俣病百科

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連載・企画一覧

動き出す 「最終」解決
2010年1月13日~1月15日
水俣病2009(2009年末特集)
2009年12月31日
水俣病問題のこの一年を振り返ります。
水俣病関西訴訟 最高裁判決から5年
2009年10月14日
水俣病の発生・拡大をめぐる国と熊本県の賠償責任を確定させ、被害を広くとらえた関西訴訟の最高裁判決から、15日で丸5年・・・
政権交代 水俣病救済の行方
2009年10月3日~10月5日
政治決着の行方 緊急連載 水俣病救済法案
2009年7月3日~7月5日
風上の国から 中国水銀国際会議
2009年7月1日~7月9日
水俣病特措法と政策の「ゆがみ」
<寄稿>室蘭工業大大学院教授・永松俊雄
2009年6月26日~6月27日
水俣病公式確認から53年
2009年5月1日
水俣病公式確認から53年目の節目に、公害病の地域指定とは何かを探ります。
分社化の思惑 チッソ 責任の行方は・・・
2009年2月8日~2月19日
水俣病2008(2008年末特集)
2008年12月30日
水俣病問題のこの一年を振り返ります。
判決を前に 水俣病溝口訴訟
2008年1月21日~22日
2007年末特集 水俣病この一年
2007年12月29日
 国と熊本県の責任を断罪した二〇〇四(平成十六)年十月の関西訴訟最高裁判決後、新たな認定申請者が急増した水俣病問題。熊本県の認定審査会は再開したが、認定基準を見直さない姿勢に反発が続き、新たな訴訟も相次いだ。
混迷…水俣病 最高裁判決から3年
2007年10月13日~10月16日
どうなる 水俣病救済
2007年7月4日~7月5日
水俣病救済への座標軸 ―被害者団体に聞く
2007年6月14日~6月17日
水俣病50年 第13部 未来への約束
2007年5月25日~6月2日
水俣病50年 第12部 国策会社チッソ
2007年5月1日~5月12日
水俣病50年 第11部 不知火海を歩く 水俣編
2007年4月2日~4月8日
水俣病小史
2007年2月14日~7月12日
(1)曽木電気設立 電力の活用、チッソ創業へ
(2)チッソの立地 1908年 “企業城下町”を形成
(3)猫てんかん 1954年 「兆候」初めて報道
(4)公式確認 1956年5月1日 患者家族の長い苦しみ
(5)ネコ実験開始 1957年 原因解明に成果生きず
(6)食品衛生法 1957年9月 不条理な「適用できず」
(7)排水口変更 1958年9月 不知火海沿岸に被害拡大
(8)ネコ400号 1959年 排水与え発症確認
(9)有機水銀説 1959年 英医師らの論文契機に
(10)食中毒部会の解散 1959年11月13日 原因究明振り出しに
(11)サイクレーター設置 1959年12月19日 “安全な排水”を演出
(12)見舞金契約 1959年12月30日 封じられた患者の叫び
(13)総合調査研究連絡協議会 1960年2月 水掛け論続き立ち消え
(14)毛髪水銀調査 1960年 結果生かされず打ち切り
(15)胎児性患者を初確認 1961年 医学の“常識”破る経験
(16)塩化メチル水銀抽出 1962年 工場内での有機化証明
(17)新潟1次訴訟提訴 1967年6月 4大公害裁判で先陣
(18)動きだした支援の手 市民会議結成 1968年1月12日
(19)きっかけは生徒の発言 公害教育 1968年11月20日
(20)「原因はチッソ」と名指し 公害認定 1968年9月
(21)支援の輪 各地に拡大 水俣病を告発する会 1969年4月
(22)「国家権力」と闘う覚悟  1次訴訟提訴 1969年6月14日
(23)一株株主運動 1970年11月28日 全国で株主約5500人に
(24)環境庁発足 1971年7月1日 期待一変戦う相手に
(25)71年環境庁裁決 1971年8月7日 認定のハードル、一時低く
(26)「疑わしきは認定」 1971年8月 誤解嘆いた環境庁長官
(27)自主交渉 1971年12月 原因企業に「同じ痛み」を
(28)国連人間環境会議 1972年6月 身をさらし世界へ発信
(29)水俣病二次訴訟提起 1973年1月20日 判断条件正面から批判
(30)一次訴訟判決 1973年3月20日 原因企業の責任を断罪
(31)第三水俣病(1) 1975年5月 患者いないはずの町に
(32)第三水俣病(2) 1973年5月~ 各地に広がったパニック
(33)第三水俣病(3) 1973年5月~ 否定された患者の存在
(34)第三水俣病(4) 1973年5月~ 水面下に沈んだ成果
(35)第三水俣病(5) 1973年5月~ 問われた報道の姿勢
(36)補償協定締結 1973年7月9日 償い求める患者の苦闘
(37)公健法の公布 1973年10月 補償と救済に「ねじれ」
(38)仕切り網設置 1974年1月 汚染された海の象徴
(39)偽患者発言 1975年8月7日 国、県が「口裏合わせ」
(40)チッソ元社長ら起訴 1976年5月 「遅すぎ」で時効争点に
(41)不作為訴訟で患者勝訴 1976年12月 未処分者なお大量滞留
(42)公訴棄却 1977年6月14日 国の差別えぐり出す判決
(43)「52年判断条件」 1977年7月 患者認定で戻った振り子
(44)チッソ県債発行 1978年6月16日 2000年まで計2260億円
(45)国立研究センター設立 1978年10月 水銀の教訓 世界に発信
(46)三次訴訟提訴 1980年5月21日 初めて国、県の責任問う
(47)関西訴訟 1982年10月28日 県外移住者が初の提訴
(48)医学専門家会議 1985年10月 自分で作った基準を追認
(49)棄却取消訴訟 1986年3月27日 「判断条件」に再び異議
(50)水俣湾のヘドロ処理作業終了 1989年3月 チッソ負担分は今も返済
(51)IPCS(上) 1989年4月 影響受けやすい胎児
(52)IPCS(下) 1989年4月 世界に「逆行」試みた行政
(53)和解勧告(上) 1990年9月28日 広く早期に被害者救済
(54)和解勧告(下) 1990年9月28日 「司法救済」実現できず
(55)中公審答申 1991年11月26日 百とゼロの間の総合対策
(56)水俣市長が謝罪 1994年5月1日 「もやい直し」の始まり
(57)政治決着(上) 1995年6月22日 「霞が関」の抵抗押し切る
(58)政治決着(下) 1995年9月28日 苦渋の決断 被害者に迫る
(59)待たせ賃訴訟 1996年9月27日 司法でも待たされ敗訴
(60)水俣・東京展 1996年9月28日 事件の今日的意義探る
(61)日本精神神経学会の見解 1998年9月 専門家の役割問う
(62)逆転認定 1999年4月5日 裁決案を意図的に放置
(63)社会科学的研究会報告書 1999年12月 国が自らの行為を検証
(64)チッソ抜本支援策 2000年2月8日 官僚動かした“一喝”
(65)疫学調査書に「ブラブラ」2000年7月19日 30年続いた差別体質
(66)関西訴訟控訴審判決2001年4月27日 病像に新視点、国は敗訴
(67)水銀国際会議 2001年10月 注目集めた微量汚染
(68)水俣学開講 2002年9月20日 社会のありよう映し出す
(69)能「不知火」奉納 2004年8月28日 市民ら巻き込み実現
(70)最高裁判決 2004年10月15日 国、県の責任が確定
(71)環境省が新対策 2005年4月7日 被害の広がり浮き彫りに
(72)公式確認50年 2006年5月1日 解決の節目にはならず
(73)水俣病問題に係る懇談会 2006年9月1日 官僚機構相手に神経戦
(74)認定審査会再開 2007年3月10日 基準は見直されぬまま…
水俣病50年 シンポジウム
2007年2月10日
水俣病50年 第10部 官の論理
2007年1月1日~1月11日

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